仲哀天皇、応神天皇、神宮皇后。
家内安全。産業発展。開運厄除。学業成就。交通安全。病災除去。
安産。書願成就。
月次祭 毎月1日、15日(家内安全、交通安全、商売繁盛、開運厄除)
瀬田八幡宮は、山城国男山八幡宮から勧請されたと伝えられ、寛永6年(1629年)岩国領主、吉川広正により再興が命じられた瀬田村ほかの氏神である。現在の本殿は棟札によれば、正徳5年(1715年)吉川亀次郎(6代藩首経永の幼名)の命で建立されたもので、桁行4.06m、梁間3.97mの前室付き三間社流造り向拝(本殿の正面の張り出し部分)一間、銅板葺である。
全体的に装飾的要素が少なく、とくに妻飾り(屋根の両端の三角形の部分)を豕叉首(いのこさす:棟木を支えるために2本の木材を山型に組んだもの、叉首(さす):合掌)とするなど古形式をとどめている。細部の絵様も控えめで、虹梁も端に線彫りで袖切りをあらわすが、その両端の材の幅をたたまずに、そのまま他の材とつなげる手法は珍しい。以上のように古く(室町時代)からの神社建築様式を継承し、しかも、棟札により年代の確実な山口県下でも数少ない18世紀初頭の神社建築である。
社伝によれば瀬田八幡宮はその昔、男山八幡宮(京都府八幡市)より勧請されたといわれます。後年火災による記録焼失のため創建年は不詳ですが、弘治二年(1556)の「諸神田帳」に社領八斗あり、今から400年以上前の創建かと思われます。玖珂郡下八社の一つにあげられ、近郷の氏神として今日まで崇敬されてきました。 和木町教育委員会
江戸時代、和木村では男子が満15歳になると若連中に加入して村の働き手となる習がありました。若連中に入るときには力試しが行われ差し上げた石の重さによって報酬分配の標準が定められたといわれます。
一番石の重さは240キロで「脇村の住人都石源之進」と刻まれており、この人以外に差し上げた人はなかったものと思われます。
柏崎流れて遠き潮路まで 玖珂の浦半に帰る夕波
平清盛が安芸国に下向の折、1日舟遊びを楽しんだ時に詠んだと歌と伝えられています。
日本総国風土記に「小瀬川は飯山に源を発して流れ下り、柏崎に沿って海に注いでいる」と見え、また、「玖珂郡志」には「柏崎はもともと玖珂郡のうち」と記されています。 和木町教育委員会
瀬田八幡宮本殿1棟 付 棟札1枚
指定年月日 平成10(1998年)4月14日
所在の場所 玖珂郡和木町大字瀬田1番地の9
所有者 宗教法人 瀬田八幡宮
構造・形式 前室付き三間社流造り、向拝一間、銅板葺